『夢をかなえるゾウ4 ガネーシャと死神』という本を読みました。
この本は、突然の余命宣告であと3ヶ月しか生きられないと言われた主人公が、象の神様(ガネーシャ)から出された課題に取り組み、今後どう生きるかを考えていくという話です。
その中に、人を許せない時どうしたらいいかについてのヒントがありました。自分は気が弱いため、人から当たられやすいそんな性格です。心折れそうになったことが何度もあるのですが、意外と少し時間が経てば許せるようになった人も多いです。しかし、とある人だけ、「どうしても許せん、いまだに腹が立つ」とめずらしく根に持つくらい色々と言われたことがあってもう数年経つのですが、もやもやしていることがありました。まだもう少し時間がかかると思いますし、許すことはできないかもしれませんが、少しずつこの嫌な感情を手放すヒントが得られたかなと思っています。なので自分の経験を交えて書いてみたいと思います。
この穏やかな私がどうしても許せない人
自分で言うなという感じですが、私は結構穏やかな性格かなと思います。昔はちょっと違ったかもしれませんが、今はもともとおとなしいと言われてきた性格に磨きがかかり、周りからは穏やかで物静かな人と思われていると思います。
嫌なことがあると、一気にドーンと落ち込んでもう立ち直れないんじゃないかと思ったりするのですが、数日経つと急に元気になって(時々は思い出すけれど)割と忘れちゃう。一時期会社の女性社員(お局さん)に目をつけられて、本当に鬱になるかと思った時期もあったのですが、それもそんなにしょっちゅう思い出して嫌な気持ちになる、ということはありません。
そんな自分が数年経った今も、時々思い出しては嫌になるほど嫌いな人がいます。
それは30代のはじめに転職した会社の上司です。
正直、こんな人が上司やっていいのかって思うくらい酷い人でした。その人が嫌すぎて3ヶ月で辞めました。
どう嫌だったかというと、私のことを明らかに嫌っていて、重箱の隅をつつくような細かいことまでいちいち注意してきたり、ミスしてないのに難癖つけて怒られたり。常に監視されている感じでした。
監視されていると感じると、「私って信用されていないんだ」と思いますし、余計にやる気がなくなりますよね。
また差別もひどく、超お気に入り社員がいてその子には例えミスしても褒める(意味不明。本当に意味不明)。
しかもその子にだけ毎日お菓子やお昼ご飯の差し入れをしている。
こんなことを普通の会社でやっていたら、かなり大問題になっていると思うのですが、小さい会社でしたし誰もその人に注意できる人がいないので、許されていた感じです。
それまで割と常識的な会社にいただけに、衝撃的な世界でした。
また、何かにつけ自分は人より優れているアピール(自慢話など)もしていました。「あぁこの人は自信がないんだな。だから「すごいですねー」とか言ってほしいんだな。承認欲求が満たされていないんだな」って思って冷めた目で見てました。
それでも入社したばかりだし、もう少し続けて仕事ができるようになったら何も言われなくなるかもと頑張っていたのですが、ある日その糸がぷつんと切れました。
入社後のフィードバックと称して呼び出さた時のことです。そこで私がいかにダメな社員かということを一方的に説教されました。しまいには人格否定的な言葉まで飛び出して、「もうこの人間の下で働いていても、私の人生の時間が無駄になるだけだ」と確信しました。その場で「こんなことを言われるような職場では働けません」と伝えて、その日に辞めました。(手続きは一応ちゃんと踏みました)
この事件が起こるまで、私は自分は常識的な人間だと思っていたんですけどね。こんな優等生の鏡のような自分(自分で言うなですね)がまさか当日に会社を辞めると言って、本当に辞めちゃうなんて想像を超える出来事でした。その日の朝も、辞めると思って会社に行っていないですから、、(また転職活動を始めたところでした)
社会人としてこういう辞め方はどうかと思ったのですが、そんなことをしてしまうくらい自分にとって嫌な出来事だったんですね。思い切りが良かった若い自分。
ただ辞める前から土日もずっと悩んだりして精神的にキツかったのは確かです。辞めた日は本当に辛かったです。色々言われて傷ついたし、悔しかったし、悲しかったし、相手が憎らしい、どうしてあんな人間が世の中にいるのだろう、など色々な感情がぐちゃぐちゃになって次の日くらいまでずっと泣き過ごしていました。
とはいえ私のすごい所は、一時落ちるところまで落ちて泣きまくった後はフッと立ち直れるところです。もう2日後には就職活動を始めていました。(余談)
長くなりましたがとにかく、その時に『怒り』『悲しみ』『相手に対する呆れ』などが一気に溢れました。
1年以上経った今も時々思い出しては腹立たしくなり、酷いことを言われたと悲しくなったり、本当にしょうもない人間だったなと呆れたりして、もう過ぎ去ったことなのにいまだに許せずにいました。
俯瞰してみる
そんな折、先ほどの『夢をかなえるゾウ4』のガネーシャの言葉で少し考えが変わりました。
その言葉の一つは、『相手の背景を想像する』ということです。
嫌なことを言ってくる人がいたとして、その人は何でそんな風になってしまったのだろうと想像してみるということです。
私の場合ですと、あの上司はもしかしたら親に問題があったのかな、そうなると親とうまくいかなくて歪んだ性格になってしまったのかもしれない、親が嫌なことを言ってくるから自分も仕返ししてやろうと思って人に対して酷い態度を取るようになった可哀想な人なのかな。
などなど、これが合っているのかは分かりませんが許すプロセスとして自分勝手に相手の背景を想像してみるのです。
生まれてきた時はまっさらな存在だったはず。それが歪んだ人格になったのには何かしら原因があるのだろうと俯瞰して見てみるのです。これが結構有効でした。
『完璧さ』からの解放
またガネーシャはもう一つ、他人に完璧さを求めている自分に『気づく』ことについても語っていました。
振り返ると私自身も、上司はこんな人間であってはいけない。上司はこうあるべき、という自分の理想を押し付けていたのかもしれません。
それが違った時「こんな人間上司として認めない」と思ってしまったのだと思います。
自分勝手に他人に理想を押し付け、完璧さを求めるが故に結局は自分が苦しくなる
ということをずっと繰り返してきたのだと思いました。
私は結構完璧主義なところがあって、でもどんなことも完璧になどできやしないのでそれで自分にイライラしてしまうことも多かったです。そういう性格が人に対して向いてしまったのかな、と考えるようになりました。
自分も完璧じゃないし、人も完璧じゃない。
私のダメな部分が私の全てではないし、相手のダメな部分もその人の全てではない。
だから私のダメな部分だけ見て全否定されるのはおかしい。
だけど、相手のダメな部分だけ見て全否定するのも間違っている。
のかな〜と思うようにしました。
まだ修行が足りず、完全にこの境地には至れていません。まだ時折思い出すことはあるでしょう。
でも相手は人間。完璧なわけがない。
それにもうその上司と会うこともないでしょう。
自分でその人から離れることを選択できた自分を褒めつつ、もうこの嫌な感情をそろそろ手放していこう、と思いました。
死を意識して生きる
夢をかなえるゾウ4では『自分の死』についても考えさせられました。
私は割と「いつかは死ぬ」ということについて考えるタイプではあると思います。しかしそれでもつい忘れてしまったり、辛いことがあった時にはその感情に飲まれて貴重な時間を悩むことに使いすぎてしまうこともあります。
でも人はいつか死ぬのだから、もうこれ以上考えても仕方ないことはある。憎んでも仕方ないこともある。
またいつか別の嫌な人にも遭遇するでしょう。
だけど、必要以上に固執しない。恨まない。
自分のもしかしたら明日終わるかも、いや今日終わってしまうかもしれない人生を、それ以上考えても仕方ないことに費やして後悔したくない。
どうしても許せない時は「可哀想な人」と思ってやり過ごす。
いつか死ぬその時に、できるだけ後悔しないように。
そんな心構えを持って、人生を生きたいと思いました。
本を読むって大事ですね。